恋をしたいと、時々思う。否、いつでも思っている。61歳になった今でも。

恋をしているときは、相手の言葉や態度に一喜一憂する。夜ベッドに入り、その日の出来事や恋する相手との会話を振り返り、あれこれひとり想いを巡らす。胸が苦しくなったり、熱くなったりと、心は落ち着かない。でも、なぜか毎日が楽しいのだ。福岡女子大学に通っていた当時、夜が更けるにつれ、友人らとそんな恋の話で盛り上がったものだ。

そういうことをあまり意識することがなくなったのはいつからだろう。なぜだろう。

私のkeysデビューは、第76回(1990年1月20日)、26歳の冬だった。東京で働いていた同級生が福岡に戻ったのに合わせて、参加するようになった。それから500-75=425冊の本を読んできたことになる。もちろん、欠席も休会もあり、そして本を読めないまま参加したこともたくさんある。

私にとってkeysは恋の場である。誰かが、本という恋の相手を紹介してくれるのだ。自分では全く手に取ることのなかった本と出会い、のめりこんでいくこともあれば、自分で選んでおきながら、読むことが苦痛でたまらないこともある。

恋の相手となった本の中で、私は違う人生を生きることができる。登場人物になったつもりで、あるいは本には存在しない新たな登場人物として、物語に参加し、喜び、悲しみ、怒り、嘆く。

そうして、毎月1冊の本を通して、keysに参加し、言葉を交わしてきた。他人が発する言葉の背景にあるであろう、個人的な経験や知識、価値などを想像してみることも、恋する相手の気持ちを想像するのによく似て、とても興味深いものだ。

初めての参加から35年余りの歳月が過ぎ、鮮明に記憶に残っている本や言葉もある一方で、忘却の彼方に消え去ってしまったものも少なくない。故に、また新しい出会いを求めて、keysに出かけて行くのだ。かなりこじつけのようだが、まさに恋だ。忘れるから、次に進んで行ける。私は、まだ恋をしているではないか。

さて、当初の私の疑問の答えは、『愛はなぜ終わるのか』(第118回)に書いてあったのかもしれない。生身の人間に対する恋と縁遠くなりつつあるのは、生物学的理由で説明されるだろう。肉体は生殖機能を失った。これから老いに向かい、私はいずれ認知症になる。その時が来たら、私は妄想の世界に生き、そこで恋をして、幸せな気分で死を迎えたいと思う。もの盗られ妄想には憑りつかれたくない。だから、私はこれからもkeysに出かけていく。未知の本と出会い、幾通りもの人生を生き、未来のために、とびっきりの妄想の素となる物語を、今のうちにしっかり記憶に留めておきたいと思うのである。

keys500回。自然な流れの中で、我々とともに、keysも変わりつつ、続いてきたことに、感謝です。

 

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