2024年度読書会記録
2024
| 回 | 開催日 | 本 | 著者 | 店 | 幹事 |
| 495 | 28/12/24 | 『塞王の楯(上)』 | 今村翔吾 | 広東料理セッション | 中竹尚子 |
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* 飛田屋・山方小組頭段蔵の「互いに支え合って一つのものを造るということ、目立った功績の裏には目立たずとも礎となる者がいること、ふと石垣と人は似ているのかもしれない」という感慨は、信長、秀吉、家康と続く歴史の表舞台の背後を「城の石垣」という視点で描くという、直木賞の本領発揮と言うべく見事な作品だと思う。(M. Y.) |
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| 494 | 16/11/24 | 『水のかたち(下)』 | 宮本 輝 | 末信みゆき | |
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* 綺麗だけれど甘すぎるお菓子をいただいて、塩が欲しくなる感じでした。横尾文之助が付け足しになってしまってもったいない気がしました。(M. S.) |
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| 493 | 26/10/24 | 『水のかたち(上)』 | 宮本 輝 | 博多廊 西中州 | 勝野真紀子 |
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* しなやかな感性、男女の機微や尽きない好奇心に溢れた「枕草子」を読み終えた直後ということもあってか、「上巻」を読み終えた時点でやや謎の消化不良を起こしそうだったので、物語が一体どう収束されるのか…「下巻」まで一気に読み進めることにした。昔から読んできた宮本輝の作風とはかなり異質で最後まで小さな違和感が残る作品ではあった。一筋の水が別の一筋と交わり長い年月をかけて大きな流れとなったりまた長い年月をかけて伏流した水がある時地表に美しい水となって湧き出る様(水のかたち)を柔らかく醸し出す存在としての主人公志乃子、彼女から自然発生的に連鎖していく様々な人・物との繋がりやまたそれらに伴う環境の変化があまりにも突飛すぎたようだ。「下巻」でのコメントを待ちたいが、いずれにしても読後の賛否が大きく分かれる作品と言えよう。(M. K.) |
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| 492 | 28/9/24 | 『むかし・あけぼの 下 小説枕草子』 | 田辺聖子 | 渡邉稔子 | |
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* 「そんなわけで、いまの私は、かなり何もかも充足してる、といっていい。自分の夫も子供も家庭もないけれど、中宮のいられるところが私の家庭で、夫の代わりに友人たちがあり、子供は、世間にみちみちていた。そしてそれらすべての上に、燃えるが如き私の好奇心があるのだ。退屈なんか、したことがなかった。」この言葉は、田辺聖子氏によるものだが、そこに込められた少納言の生き方に、強い共感を感じる。高い教養と美を持って中宮に仕える少納言は、まさに憧れ。定子を囲んで交わされる会話の数々。平安の世に生まれ、一女房として、少納言とともに中宮のおそばに仕えてみたいものだ。男女のこと、女の職場のあれこれ、政(まつりごと)のなかの争いなど、千年の時を超えても変わらない人の営みに、定子を真似て、くすりと笑ってみたい。(T. W.) |
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| 491 | 31/8/24 | 『むかし・あけぼの 上 小説枕草子』 | 田辺聖子 | シークレットレストランK | 中島久代 |
| * Keysランチ会で、この本の内容の現代にも通じる素晴らしさについてひとしきり話題になったが、私もまったく同感で、一例を挙げると、斉信(ただのぶ)中将との関係である。二人とも囲碁が好きで、碁盤を囲むこともあったというが、二人の間の隠喩として、男と女の間の噂話に囲碁用語を用いて、「男に先手をとられた」とか、「駄目を打った」 などといい、男が女にあたまが上らないと、「男は何目かおいてる」などという。拍手喝采である!斉信卿の知的遊戯の罠であることを承知の上で展開する二人の会話は秀逸である。「私と斉信の君はつまり、そういう罠をしかけあうことに恋している間柄なのである。実体のある恋、肉体とか欲望とか、嫉妬、心と体のほとんど一体なる疼き、といった、そういうたぐいのものではないのだった。」この一節に私は、現代のどのような作家にも負けない清少納言の鋭い知性と感性を感じた次第である。 (M. Y.) * 「男というものは(女もそうだろうけれど)なんと千差万別!」と語る清少納言には、人の千差万別が面白く興味深くてたまらない。「うれしくてぞくぞくはしても、実体のある恋ではない。肉体とか欲望とか、嫉妬、心と体のほとんど一体なる疼きといった、そういうたぐいのものではない」関係を、言の葉を身に沁みながら「わかり合える人」と「たしかめ合う」おもしろさを平安に生きる清少納言は求めている。そんな関係を私も求めたいと今しみじみ思うものだ。(H.K.) |
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| 490 | 27/7/24 | 『忘れられた日本人』 | 宮本常一 | あじ正 | 中島久代 |
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* それぞれの生き様を各地の年寄りから丁寧に聞き取り文章にされたもの。村の寄り合いで、意見が出尽くし納得するまで何日も話し合うさま。村の若い女性が家を出て奉公し稼いだお金で世間を知ろうと都会に遊びにいく慣習。「文字に縁の薄い人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事は誠実にはたし、また隣人を愛し、どこか底抜けに明るいところを持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。」これは「文字をもつ伝承者(一)」の章にある作者の一文であるが、私自身この本で紹介された人たちに新しい発見があり愛おしさを感じた。(N. N.) |
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| 489 | 29/6/24 | 『犬婿入り』 | 多和田葉子 | カフェコントレイル(ホテルJALシティ福岡天神) | 山中光義 |
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* 「献灯使」で多和田葉子の地球全体を包み込むような壮大な視点を感じ、鎖国のように閉ざされた中で格闘している日本の現状について考えさせられた。その感覚を持ったまま「犬婿入り」を読み、30年前に書かれた初期の作品でありながら内容はショッキングでよくわからない。置いてきぼりに感じて思わず読み直す。そうやってじわじわと、この女主人公「北村みつこ」は、多和田葉子そのものではないかと感じ始める。国境、男女間、人間とそれ以外(犬や狐は神の化身?)まであらゆる境目がなく、全てを受容できてしまう存在。何故かその姿はこれほどに異様が付き纏うように描かれている。不思議な作家さんに出会ったものだと私はまだまだ消化できずにいる。 (N. N.) |
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| 488 | 25/5/24 | 『燕は戻ってこない』 | 桐野夏生 | 海山亭 | 渡邉稔子 |
| * 世の中には、どんなに望んでも、努力しても、叶わないことがある。その究極が命に関わること。生きていることは、何かが欠けていることを受け入れていく過程だと思っていた。登場人物それぞれの気持ちが整理されないまま、物事だけが進んでいく不気味さのなかで、主人公が最後に自分の意思で行動したことに、少し救われた気がした。 定年という通過点を越え、いつも見守ってくれるメンバーの眼差しの暖かさに、人生の続きがますます楽しみになりました。(T. W.) * 家庭でも学校でも性教育などおよそ無縁の時代に育った世代の人間としては、この本の内容は最初から最後まで殺伐としたものであった。何故ならば、そこには、昔存在した、喜怒哀楽ない混ぜにした性をめぐる想像力の働き(=物語)が皆無だからである。作者の誠意は、ストーリーがあるから歌麿が好きだというりりこの設定であろう。原子爆弾の発明が人類の存続を脅かしているが、「生殖テクノロジー」の進歩が人類の滅亡への道を切り開いて行かないことを願いたい。(M. Y.) * 読書中に「NHKスペシャル ヒューマン 性の欲望」を観る機会があった。番組で、人は四足歩行から二足歩行になって女性の子宮が小さくなり多産できなくなったので、他の種と違い「発情期」がなく常に愛し合うようになったという。生む自由、生まない自由、セックスをしない自由もあるが、悠久の「性の歴史」を現代人の「自由」で破壊してしまってよいものだろうか。けれど代理母の主人公が本当の「母」になろうとした結末には、燕にも戻ってこないという「自由」があってもよいと思った。(H.K.) * 日々の生活に疲れた女子同士のさりげない会話が発端で、不安を感じながらも一線を超える代理母に足を踏み入れることになる。佳子叔母に象徴される結婚や出産への憧れが根本にあるものの、悠子やりりこなどともぶつかりながら、リキは様々な性の価値観を受け止めていく。リキがビジネスとして代理母を全うしながら、自問自答を繰り返し、自分に正直で逞しくなる様は爽快で救いでもあった。(N. N.) * とっこちゃんのコメント「生きていることは、何かが欠けていることを受け入れていく過程」は心に深く染みました。久しぶりに桐野夏生の、生命を縦糸に、格差社会を横糸に、人故のグロテスクさと、それが生む悲しみを抉り出すような物語を堪能しました。必要を超えた願いを実現しようと他者の人格も尊厳も置き去りにする草桶夫妻と、最低限の必要を満たしたいと自らの尊厳を置き去りにするリキ。彼らが目をそらそうとするグロテスクさと表裏一体の悲しみを、はっきりと指摘するのは春画家りりこのみ。リキがぐらを連れて旅立つ最後は、リキの尊厳の取り戻しであり、自分の人生を選び取る出発と映ります。しかし、この物語が同時に問う子の権利とは、は未決のまま。ぐらの魂はどこに?子は親のもの? (H. N.) |
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| 487 | 20/4/24 | 『おはん』 | 宇野千代 | まな板の上の旬 ぽぽぽん | 勝野真紀子 |
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久しぶりのゲストとこの春新たな門出を迎え終始にこやかなTさん、時間に左右されることなく自由自在に時間を満喫できる幸せを語る顔が輝いていたのがとても印象的な夜でした。 |
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| 486 | 21/3/24 | 『BLANK PAGE 空っぽを満たす旅』 | 内田也哉子 | 休会 | 千葉敦子 |
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* 長年強い関心を抱いてきた俳優樹木希林を思いがけない角度から眺める機会を得た本であった。演技する彼女と普段の彼女にギャップが無いことも再確認できた。「外国では誰にでも、平然と日本語で語りかけ、同じ人間なら必ず心が通じるという思い込みたるや相当なもの」という一節は、我が亡き母を思い出させた。一時期我が家によく出入りしていたイギリス人がいたが、夕食の席で彼女は躊躇いも無く日本語で色々と話しかけていたものである。「言葉」本来の機能とは何たるかを教えられたものである。 (M. Y.) |
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| 485 | /2/24 | 『献灯使』 | 多和田葉子 | 金城博子 | |
| * 東日本大震災直後の風景、放射能汚染で立入禁止となる村や町、東京でさえも子どもの放射能汚染を心配する声が多かった。その記憶が一気に甦る。そこから発想を広げたら「献灯使」の描く世界になるのだろうか。あれから10年以上経過した今、あの恐怖はなんだったのか。人間の営みがもたらす原子力への依存、地球温暖化、無差別殺戮の戦争など次々に馬鹿げた行為が頭をよぎる。なんで止められないのかとうんざり。(N.N.) * 有吉佐和子の『恍惚の人』(1972)が「認知症」という言葉をその後を生きる我々の「日常語」として定着させていったように、多和田の『献灯使』(2018)も、近未来の人間社会を予告している怖さを感じさせた。「言葉の寿命はどんどん短くなっていく。、、、古くさいというスタンプを押されて次々消えていく言葉の中には後継者が無い言葉もある。」とか、男の子が女性化し、女の子が男性化する、等々は既に現実化しており、人類消滅の後、人間の影響を受けて文明化したというイヌがクマとの対話で、少年の匂いがする靴を草むらに隠して、匂いを嗅いでエクスタシーに浸っていると言っているが、我が家の犬は女飼い主のスリッパを毎日(それも二、三足)自分の寝ぐらに隠して舐め回している。ロバート・キャンベルとの対談の中で多和田は、「私はものを考える時に、言葉に手伝ってもらうことがあるんです。それは、言葉は私よりずっと長く生きているせいか、私とは比べものにならないくらい知恵があって、私にはとても思いつかないようなアイデアを与えてくれるから。」と言っているが、作品の最初から最後まで、緩みの無い言葉に溢れている。(M. Y.) * 働き手の中心となる現役世代が、今より2割近く減ると言われている「八かけ社会」の特集記事(2024年1月1日付朝日)で、本作が紹介されていたのだが、読んでみると、東日本大震災に触発された作品という方が腑に落ちる。震災のあの日、東京のはずれにいても支えがなければ立っていられないほどの揺れを感じ、直後の原発事故によって、ゾワリとした世紀末的な感覚が確かにあったことを思い出しもした。人は言葉によって世界観を共有する。だがこの作品に登場する人物たちが繰り出す言葉は、縦横無尽に絡み合い、時には外し合う。それでいて争わず、お互いを静かに受け入れている。今の社会はその逆だ。言葉を理解し合っているようで、目には見えない心の状態を理解する思いやりが欠けている。世界の自国主義を見ていると、この作品で日本がとった「鎖国政策」は今を予見しているようだ。歯医者の場面で老人が「細胞がどのくらい破壊されているか、調べているんですよね。」と言うセリフを通いの歯科の診察台で思い出し、クスリと笑うかもしれないが、、、。(H.K.) |
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| 484 | 21/1/24 | 『青い壺』 | 有吉佐和子 | 広東料理セッション | 中竹尚子 |
| * 「うまい。うまいこと古色ついたわ。これであんた焼酎につけて床下へ入れとけば、半年で江戸初期というて通りまんねんで」という第1話の道具屋の自慢が、最終第13話での「僕は古美術の鑑定では、日本で一、二といわれている男だよ」という「評論家」氏の「自慢の恥」で結ばれるという見事な仕組みである。「往時の陶工が決して作品に自分の名など彫らなかったように、自分もこれからは作品に刻印するのはやめておこう」という結びの言葉が重い。第9話の同窓会顛末は秀逸。 (M. Y.) * 一つの青磁の花瓶を巡る評価は全13話で様々。これが登場人物たちの育ちや生き様と相まって面白い。また、そこに隠れている社会問題を、当時としては先端的な観点で、皮肉混じりにさらりと描く。作者にあっぱれと言いたくなる。第一話で、作った本人でさえ、土と炎と釉薬が織りなす偶然の産物であるその青い色に惚れ惚れと感じたほどのもの。どんな青だろう。古色がついていないその姿を私は見たいと思った。 (N. N) * 現代の陶工が創作した優れて美しい青い壺。底に名さえ焼いてあれば、現代の名品として後世に真価が問われ、創作者の技を伝えて知名度を上げ、日本の陶磁の伝統を塗り替えたかもしれない青い壺。しかし、観る目のあるなしにかかわらず、工芸品を売買する人、定年の夫が重荷な人、没落した旧家の医者とその母など、それぞれに昭和を象徴する人々の手で翻弄され、古代の名器の仮面を被せられた壺。壺は偶然を生きる我々そのもの。オムニバス式の視点も、登場人物たちのことばも、ユーモアと皮肉が同居して、有吉佐和子の真骨頂が楽しめた。 (H. N.) |
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